雲仙とは?

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雲仙の歴史

雲仙はかつて「温泉」と記されており、訛って「うんぜん」となりました。

  • 古代から江戸時代
  • 明治から昭和初期
  • 戦後から現在
  • 仏教
  • キリスト教
  • 協会

古代から江戸時代

西暦年号歴史記述
88温泉山や島原の事が文献に現われはじめる
701大宝1僧行基を開基し、四面宮をあわせて祀り、山号を温泉山と号する
713和銅6肥前風土記に「高来の郡」の名の起こりと温泉のことが記されている
749宝平1行基菩薩没
778宝亀9大乗院満明寺焼失
790延暦9弘法大師温泉山登山、霊地に如くなしと賞賛する(伝説)
931承平1乗院満明寺再び火災で全焼(温泉山縁起)
1115永久3瀬戸石原に300坊、別所に700坊、併せて1000坊もあったことがある(温泉山起源)
1571元亀2大乗院満明寺の僧兵、争いを起し、寺も坊も 焼失「白雀の乱」という(邪宗判断記)
1625寛永2松倉文後守重政、徳川幕府の命令によりキリスト教徒の弾圧を厳重にする。(この年教徒10人を温泉火坑に投じたと伝えられる)
1627寛永4キリスト教徒に対する弾圧は一層厳しくなる。この年から1630年まで「山入り」と称し、教徒を温泉におくり、地獄責めをして改宗を 迫った
1637寛永14島原の乱が起こる。12月3日 反乱軍の主将益田天草四郎時貞は原城に入城、反乱軍総数23,800余
1638寛永152月28日 食糧・弾薬尽き陥落。乱平定。老若男女約35,000人全員死亡
1640寛永17大乗院の旧地を興し、一大釈迦堂が建立され一乗院と号す
1653承応2加藤善佐衛門、雲仙に湯つぼを開き延暦湯と名づける(共同浴場のはじまり)
1657明暦3普賢岳鳩穴付近から北に向かって溶岩を噴出(明暦の噴火)
1663寛文33月、普賢岳南側、噴火 (寛文3年噴火)
1672寛文12温泉の古湯に湯つぼを掘り、2代目加藤善佐衛門が湯守につく
1690元禄3ケンペル、長崎に来て西洋医術を伝える。滞在中に著した『日本史話』に雲仙の地名が出る。(ヨーロッパに紹介する)
1693元禄6温泉保護のため、山番人を置き4月1日、境内入口4ヶ所に制札をたてる
1731享保16温泉の小地獄に浴場をつくる。これを南温泉といい、1653年に掘った古湯のことを北温泉という
1738元文3普賢岳に殺生禁止の石札がたてられる
1755宝暦5温泉に護摩堂が建立される
1775安永4温泉山保護のため、島原藩主が山留役をおく
1792寛政4大地震のため眉山が崩落し、大津波発生(島原大変肥後迷惑)
1792寛政4温泉札の原の水田工事完成
1823文政6シーボルト『日本』を著し、その著書に雲仙の地名が現れる。“UNZEN・TAKE”としてヨーロッパに紹介
1853嘉永6吉田松陰、小地獄に入る
1855安政2高島炭鉱の開発に携わっていた技師ブラウンが、外国人登山禁止の雲仙に登り、上田屋に投宿
1867慶応3イギリス人2名が許可なく登山したが、小地獄で捕らえられ長崎へ護送される

明治から昭和初期

西暦年号歴史記述
1870明治3アメリカ将校7人、通訳、コックボーイを連れて湯本旅館(現湯元ホテル)に逗留
1878明治11新湯温泉開発。雲仙で綿羊飼育 。日本人浴槽の他に、洋人風呂と称する一人のみ入浴する箱風呂を作り、混浴を避けたところ外国人の滞在客が増える
1883明治1純洋式の下田ホテルが新築される。緑屋ホテルが外国人向きに設備を改める。
1890明治23外国誌、上海ノースチャイナデリーニュースに雲仙が紹介される。外国からの避暑客が増加する
1891明治24湯せんぺいを試製
1893明治26新湯の亀の屋旅館(現新湯ホテル)が外国人専門ホテルとなる。
1895明治28日清戦争後、ハルピン、ウラジオストックのロシア人避暑客が増加する
1899明治32季節(夏季)電信取扱所が置かれる。6年後 二等郵便局となる
1905明治38ドイツ、ベルツ博士登山、県当局に県営保養温泉公園設置を進言
1911明治444月、我が国初の県営雲仙公園が開設(温泉公園取締規則が定められる)
8月、県雲仙公園事務所設置(民家借受小浜雲仙間の道路改良、完成。自動車が走る
雲仙、小浜に電灯が灯る
1913大正2県営ゴルフ場(池の原、9ホール)開設。県営テニスコート開設(湯の里)
1916大正5千々石雲仙間自動車道路が完成
1918大正77月、ジャパンツーリストビューロー(JTB)の夏期温泉出張所が公園事務所内に開設される
1920大正9吉井勇・斎藤茂吉来仙
1921大正108月、第一回国際テニス大会開催
1922大正11雲仙、小浜間に定期バスが走る。島原、雲仙間に自動車道路が完成
1923大正121月1日、絹笠山に気象観測所が設置される。雲仙に街灯が点灯される
1924大正13インドの詩人タゴール来仙
1925大正14秩父宮殿下普賢岳御登山
1927昭和2雲仙岳が「日本新八景」山岳部門で第一位になる。外国人客2万人をこえる
蒋介石来仙。高松宮殿下御来仙
1928昭和3雲仙岳が当時の史蹟名勝天然記念物法により名勝地に指定される
1929昭和46月 別所に冷水プールができる。徳富蘇峯来仙
1930昭和58月 雲仙国際観光協会設立
1931昭和6雲仙乗馬協会結成     *満州事変起こる
1933昭和81月 雲仙大弓場完成
7月 白雲の池キャンプ場開設
東伏見宮大妃殿下、高松宮妃殿下御来仙
1934昭和93月16日国立公園に指定される
温泉公園の名を正式に雲仙公園に変更
県営バスが長崎と雲仙の間に開通(県営バス発足)
国際観光産業博覧会の第2会場となる
1935昭和10北原白秋来仙
1936昭和11仁田自動車有料道路完成    *2.26事件起こる
1937昭和12国立公園指定記念雲仙記念館が竣工
温泉岳測候所が設置される
1941昭和16*太平洋戦争開戦
1942昭和17三笠宮殿下御来仙

戦後から現在

西暦年号歴史記述
1946昭和21米駐留軍により、県有地(ゴルフ場)及び 各ホテルが接収される
1949昭和24天皇陛下行幸さる
1950昭和25第6回日本ユネスコ大会開催
ゴルフ場、テニスコート、各ホテル等の米駐留軍による接収解除
1951昭和26国際ゴルフ大会及び国際テニス大会再開される
1952昭和27文化保護法により、雲仙岳は富士山とともに「特別名勝地」として指定される
1954昭和29映画「君の名は」のロケが始まる
国立公園指定20周年記念式典開催
1955昭和30別所の水泳プール廃止
1956昭和31日本、国連加盟決まる
国民保養地に指定される
天草諸島を合わせて雲仙天草国立公園となる
1957昭和32小浜・雲仙間の有料道路完成
仁田峠・妙見岳ロープウエー完成
集団施設地区区域及び計画決定される
1958昭和33娯楽館老朽化のため撤去
1960昭和35雲仙・島原間の有料道路完成
1961昭和36天皇・皇后両陛下が御来仙
全国総合開発計画決定
1963昭和38県国際観光会館竣工
観光基本法成立
県営バス長崎空港・雲仙間直行バス運行開始
1964昭和39国立公園指定30周年記念式典、及び長崎県自然公園大会開催
九州国際観光バス(株)が長崎・雲仙熊本・別府間長距離バス運行開始
東京オリンピック開
1965昭和40雲仙を美しくする会発足
三笠宮殿下、同妃殿下後来仙
1966昭和41テレビ「君の名は」のロケ始まる
1967昭和42公害対策基本法制定
1969昭和44皇太子殿下御来仙
天皇、皇后両陛下行幸啓される
新全国総合開発計画決定
1970昭和45日本万国博覧会開幕
1971昭和45第13回国立公園大会が常陸宮殿下・妃殿下をお迎えして開催
1973昭和48弓道場が老朽化のため撤去
小浜ー雲仙ー島原間の有料道路が無料化
第1次石油ショック起こる
1974昭和49国土利用法制定
国立公園指定40周年記念行事開催
1976昭和51カナダ・バンフ国立公園と姉妹盟約を締結
テレビドラマ「花ぼうろ」(原作 花登筐)が放映される
1977昭和52浩宮様御来仙
記念館老朽化のため撤去
第三次全国総合開発計画決定
1978昭和53第1回まつり雲仙開催
1981昭和56カトリック雲仙教会完成、献堂式行わる
1982昭和57第1回こども自然公園大会「はだしで遊ぼう雲仙」開催
1983昭和58雲仙プラン50発表
1985昭和60雲仙メモリアルホール完成
国立公園指定50周年記念広場完成
1986昭和61雲仙アザミ谷が「日本森林浴百選」に選ばれる
天然記念物ミヤマキリシマ盗掘防止パトロールを開始
1987昭和62北海道上川町層雲峡と姉妹観光協会盟約調印
1988昭和63小浜町立雲仙小学校創立百周年
1989平成1小浜、霧島、牧園、観光姉妹町盟約20周年
1990平成2雲仙~福岡間に高速バス運行
国見町百花台公園で第41回全国植樹際が開催。天皇・皇后両陛下雲仙御宿泊
雲仙普賢岳約200年ぶりに噴火活動再開
1991平成3噴火の影響で雲仙の宿泊客大幅減少
1992平成4「君の名は」2代目真知子、春樹来仙する
溶岩ドーム見物客増加
雲仙・小浜・島原は「リボーン雲仙」キャンペーン開始
1993平成5第三セクター方式多目的保養館「雲仙スパハウス」完成
県営バスターミナル二階に「雲仙資料館」開館
島原半島全域の活性化を図る「島原ファンタジア」開催
1994平成6雲仙国立公園指定60周年
雲仙ビジターセンターに普賢岳活動を監視するハイビジョン完成
普賢岳溶岩ドーム3年間の総噴出量約23,000万立方メートル(東京ドーム78杯分。5月現在)
国立公園シンポジウム」開催
1995平成7第49回全国野鳥保護のつどい開催
常陸宮殿下・妃殿下御来雲さる
1996平成8火山活動終息宣言出される
新溶岩ドーム「平成新山」と命名される(標高1486m)
皇太子・同妃殿下御来仙さる
1997平成9地ビール雲仙旅の麦酒館完成
がまだす計画最終案発表まとまる
雲仙ルネッサンス計画が発表
1998平成10普賢岳登山ルート一部解禁される
緑のダイヤモンド計画発表される
雲仙美化センター完成
1999平成11普賢岳あざみ谷ルート開通する
ポーランドの世界的絵本作家ユゼフ ヴィルコン氏来仙
雲仙観光協会公式ホームページ「るるる雲仙」開設(12月30日)
2000平成12温泉フォーラムinUNZEN開催
ドイツバーデン・バーデン市長(ラング女史)来仙し基調講演をする
ながさき阿蘭陀年開催
普賢岳噴火10周年
2001平成13花祭UNZEN開催
2002平成14雲仙お山の文化祭開催
2004平成16雲仙お山の情報館開館
国立公園指定70周年
2005 平成17 雲仙市誕生
大津波(パールバック原作)上映
2006 平成18 雲仙市・霧島市姉妹都市盟約
雲仙ゴルフ場民営化
2007 平成19 雲仙ガイド「さるふぁ」誕生
雲仙市、韓国求礼郡姉妹盟約
火山都市国際会議開催
2008 平成20 観光庁発足
2009 平成21 仁田峠循環道路無料化
島原半島世界ジオパーク認定
第33回全国育樹祭(皇太子殿下行啓)
2010 平成22 雲仙プラン100プロジェクト発足
雲仙ロータリークラブ創立40周年記念シンポジウム
2011 平成23 東日本大震災発生
九州新幹線全線開通
古湯商店街ファザード整備
2012 平成24 普賢岳新登山道開通
ジオパーク国際ユネスコ会議開催
釜山女子大学友好10周年
台湾烏來区観光発展協会姉妹盟約
2013 平成25 雲仙温泉観光協会発足
雲仙ゴルフ場開場100周年
2014 平成26 国立公園指定80周年

仏教

西暦年号歴史記述
701大宝元年奈良時代の名僧行基大乗院満明寺を建立する。山号は温泉山。温泉と書いて「うんぜん」と呼ばれていた。また合わせて四面宮を祀った。(雲仙の仏教伝説と遺跡参照)
713和同六年肥前風土記に温泉(うんぜん)の記述が現れる。
749宝平元年行基菩薩没
778宝亀九年大乗院満明寺焼失する。寄付によって再建される。
790延暦九年弘法大師温泉山登山 (雲仙の仏教伝説と遺跡参照)
931承平元年大乗院満明寺焼失する。
1115永久三年僧の定僧が大乗院満明寺を再興する。瀬戸石原に300坊、別所に700坊、併せて1,000坊 もあったと伝えられている。
1571元亀二年大乗院満明寺僧兵、争いを起こし、寺も坊焼失する。これを白雀の乱という。(雲仙の仏教伝説と遺跡参照)
1637寛永十四年島原の乱により大乗院満明寺焼き払われる。
1640寛永十七年大乗院満明寺の旧地を興し、一大釈迦堂が建立され 一乗院と号される。
1693元禄六年島原城主松平忠房が一乗院、四面宮を改築。
1750寛延三年温泉の古湯に釈迦堂が建てられる。
1869明治二年温泉四面宮を国魂神社と改称。神仏判別の制により京泊の末寺、観華院に一乗院を移す。
1898明治三十一年一乗院の名残りの一つであった釈迦堂が焼失。護摩堂も類焼する。
1900明治三十三年筑紫国魂神社1,200年祭
1914大正三年雲仙国魂神社が温泉神社と改名され県社となる。
1916大正五年一乗院釈迦堂の再建工事が完成し、開眼式が行れる。
1991平成三年噴火により、普賢神社焼失する。
1995平成七年普賢神社仮拝殿建立される。
1997平成九年満明寺本堂改築される。

雲仙の仏教伝説と遺跡

1)雲仙の名称と起源
  • 雲仙の別所付近には、縄文時代前期(6000年前)の住居跡が発見されている。
  • 雲仙が記録として現れるのは、和銅六年(713年)に書かれた肥前風土記である。
  • 肥前風土記には高来峰として雲仙が登場してくる。
  • 温泉山(うんぜんさん)は僧行基が開山した大乗院満明寺の山号である。
  • 支那との交通で東支那海から最初に見える日本の山が雲仙岳であったので日本山とも呼ばれていた。
  • 雲仙山とは、徳川時代の風雅な詩人・文人・墨客が名付けた雅号であった。
  • 昭和九年に国立公園として指定されたとき、温泉温泉と書くのは紛らわしいので、雲仙温泉と改められた。
2)何故雲仙は高来峰(たかくみね)と呼ばれたか?
  • 肥前風土記には、十二代景行天皇が熊襲(くまそ)を攻めるとき、大野宿弥(おおのすくね)に長洲(熊本県)の浜から海の向こうに見える山は、陸か島か調査するよう命じた。
  • 大野宿弥(おおのすくね)は、有明海を渡り、当地の支配者の出迎えを受けたという。
  • 支配者は、「僕(あ)は此(こ)の山の神、名は高津来座(たかくつくら)ともうす。」と話したことから、高来峰(たかくみね)と呼ばれた。
3)温泉山と行基(伝承)
  • 温泉山縁起という伝承によれば、大宝元年(701年)僧行基は天草から温泉山(雲仙岳)の噴煙を見て温泉山を求法の地と定め、やがて口之津、有家を経て一切経の地に着いた。
  • 僧行基は仏法弘通のため、四月十七日高来山を卜(と)して、三七、二十一日の祈願をこめて山の主を尋ねたという。
  • 満願の日の五更(午前四時から五時)ころ、空中に十丈(約30m)ばかりの大蛇が現れ、行基を見てたちまち四面の美女となった。
  • 行基が「汝の本性は何か」と問うと「吾の真の本性は五智の如来である」と答えて大光明」を放ったという。
  • そこで行基は文武天皇に奏して堂塔伽藍の開基を願い、勅許を得て上免田まで寄進されたという。
  • 勅許を受けて僧行基は大乗院満明寺を開基し、四面宮(温泉神社)をあわせて祀り山号を温泉山としたとされている。
4)行基入寂
  • 僧行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂したと伝えられている。現在、行基の墓は、寺のノ馬場にひっそりとたたずんでおり、信心深い人達が花や線香を捧げて徳を偲んでいる。
5)雲仙と弘法大師(伝説)
  • 雲仙にも弘法大師が立ち寄ったとの伝説が残っており、雲仙を見て弘法大師は「霊地之に如くなし」と賞賛したと伝えられている。
6)真言宗の盛衰
  • 温泉山満明寺は、比叡山・高野山とともに天下の三山と称されていた。
  • 宝亀九年(778年)、寺の内乱により満明寺は焼失し、そのため肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)の田地一町歩につき銭百文宛の寄付を集めて再建された。
  • その後、承平元年(931年)に再び焼失し、以後七百年余り仮堂のままとなり一時中絶した。
  • 永久三年(1115年)に再建をされ、次第に繁栄して、一時は瀬戸石原(現在の札ノ原)三百坊別所七百坊合計一千坊もの僧坊を誇り、世の崇敬を集めていた。
  • 永禄五年(1562年)には、領主有馬義直がルイ・アルメーダを招いて、キリスト教が盛んに 布教されるようになり満明寺は次第に衰退してゆく。
  • キリスト教が盛んになる中で,元亀二年(1571年)白雀の乱という僧坊同志の争いが起こり、満明寺はまたもや焼失する。
  • その後再建されるが、島原の乱(1673年)により焼失し、打撃を受ける。
  • 寛永十七年(1640年)新たに島原藩主となった高力忠房による復興が行はれたが、延宝元年(1673年)火災による焼失と藩主松平氏による再建が行なはれた。
  • 現在は京都仁和寺の末寺「雲仙山満明寺」となっている。
7)白雀の乱
  • 元亀二年(1571年)のころ、古湯の僧坊に「学一丸」という稚児が居り、一羽の白雀をたいそう可愛がっていた。
  • ところが、別所の僧坊にいた「宝寿丸」という稚児と、「白雀を貸せ貸さぬ」という争いになり、とうとう「宝寿丸」が、誤って白雀を殺してしまった。
  • 二人の喧嘩は僧坊同士の対立に発展し、ついには満明寺が放火される事件に発展した。
  • 有馬の原城にいた有馬義直は三百の兵を派遣して鎮定するにいたった。
  • このとき、争いの原因が稚児にあるとして、有馬義直は全坊の稚児を滝に落として処分した。
  • 別所には、今も、稚児落としの滝が、ゴウゴウと悠久の時を刻み続けている。
8)仏教遺跡

大黒天像

  • 雲仙の中心街から、歩いて約十分のおしどりの池、この池畔の自然石に大黒天像が彫られている。
  • 作者は不明。
  • 真言密教の聖地である雲仙で、修行していた僧が信仰の証として彫ったとされる。

一切教の滝

  • 小地獄近く、高岩山の西にある。
  • 昔、僧行基が、ここに篭り一切経を筆写し、滝に流したとも、この地に埋めたとも伝えられている。

知恩洞

  • 満明寺が日本三大寺院として栄えていたとき、瀬戸石原(現在の札ノ原)の高僧たちが、修験した堂宇跡といはれている。
  • 堂宇への道は細く巨大岩石の隙間を抜けて登ることになる。

片足鳥居

  • かつて温泉神社が、四面社と呼ばれていた頃の第一鳥居。
  • 文政十年(1827年)建立。
  • 女性はこの鳥居から先には入れなかった。

七日廻りの石

  • 女人禁制の地であった雲仙で、稚児として働く我が子に、忍んで会った母親が、少しの間眼を放した隙に、子の姿を見失い、この磐を七日もめぐりながら探したと言い伝えられている石。

キリスト教

西暦年号歴史記述
1549ザビエル、トレイス一行鹿児島に上陸
1553アルメイダ修道士、リラ度に来島布教
1562有馬義直、口之津を貿易港にして開港
1563アルメイダ修道士、口之津に布教、島原半島布教の第一歩、教会堂建設
1565トレイス神父、口之津を布教の本拠地とする。日本教会の本部
1567ポルトガル船、口之津入港
1568口之津のキリスト教信者、1200人
1576有馬正直妻子、重臣30人とともに口之津にて洗礼
島原半島のキリスト教信者 2万人 有馬義直死去、次子晴信、有馬13代領主となる
1579ヴァリニアーノ神父、口之津上陸 布教活動の方針を立てる(布教会議開催)
1580晴信夫妻 洗礼
有馬にセミナリオ設立(4少年使節、木村セバスチャン、西ロマンら入学) キリスト教文化の中心地となる
1582ヴァリニアーノ神父、遣欧少年使節団を伴って長崎港出港
1583アルメイダ神父、天草にて死去
1584有馬晴信、浦上をイエズス会に与進
1587秀吉の禁教令
大村純忠死去 都、下のセミナリヨ 有馬に合弁移転 生月のコレジヨ、長崎→千々石→有家に移転
1588秀吉、茂木、長崎、浦上の地をイエズス会より没収 有馬にセミナリヨを、八良尾に移転 ノビシャド、長崎→有家→天草に移転
1589八良尾のセミナリヨ、加津佐に移転 印刷機も移転
1590遣欧少年使節、長崎に帰着 金属活字、印刷機を持ち帰る 有家のコレジヨ、加津佐に移転
1591加津佐のコレジヨ、天草に移転 印刷機も移転 加津佐のセミナリヨ、八良尾に移転
1595八良尾のセミナリヨ、有家に移転
1597有家セミナリヨ、長崎に移転(二十六聖人、西坂で殉教)
1601長崎のセミナリヨ 有馬に移転
1604原城完成
1610晴信、ナードレ、ゼウス号を長崎港外で撃沈
1613ディオゴ林田他7名、有馬にて殉教
1614家康の禁教令
1618重政 島原上の築城に着手
1620島原7ヶ村124名殉教の決意ローマへ表明

教会

カトリック雲仙教会司祭 古巣馨神父様
カトリック雲仙教会司祭 古巣馨神父様

1612年~58年の間に、島原半島では数万人にもおよぶキリスト信者たちが殉教しました。神と人のために、命までも惜しみなく捧げ尽くした人を殉教者と呼びます。混迷する社会と貧しい生活の中でも、人として善良さと気前のよさをうしなうことなく、まっすぐに生きた人たちです。その生きざまは人々の記憶から消えることはありません。
 時代の大きな節目を向かえ、世界はきしみ、大人も子供もうめき声を上げています。根底から揺らいでいます。
 「私たちの世紀において、殉教者たちが再来しました。その多くは名前さえわからず、あたかも神の栄光のためにいのちをささげた“無名戦士”であるかのようです今こそ私たちはかれらの証を大切にしなければなりません」
(教皇ヨハネ・パウロ2世『世紀2000年の到来』)
 雲仙・島原を訪れた皆さんが、確かなものと出会い、本当の幸せの道を歩みはじめられることを念じております。

雲仙殉教者とステンドグラス

【聖母の組】
聖母の組

宗教改革で揺れるヨーロッパで、信徒のリーダー養成として始められた「聖母信徒会」は日本では「サンタ・マリア(聖母)の組」と呼ばれ、信徒教育を通して小共同体づくりの形をとった。『ドチリナキリシタン(キリスト信者の教え)』は日本の教会の最初の要理書で、これが司祭不在の教会で信仰伝達の核となっていた。また、『こんちりさん(完全な痛悔ための祈り)』も暗唱され、殉教や踏み絵に際していつも唱えられていた。こうした信仰教育と祈りのための集まりは、初期教会でなく、潜伏時代も密かにつ続けられたため、信仰は確固として受け継がれていったと考えらる。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18、20)信者たちは共に学び祈るために集まる、その営みを照らす3本のローソクは、三位一体の神の働きの中で行われたことを示す。闇の時代に、神は虐げられた人々の中に光を置かれた。神と出会った彼らの顔は、輝いている。

【慈悲の組】
慈悲の組

フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリストの福音は、医師であり宣教師となったアルメイダを通して癒しを伴った「神のいつくしみ」として、日本の貧しい人々に伝えられた。アルメイダは行く先々で福音の勧めを具体的に実践するためのグループを養成、組織し後の「ミゼリコルディア(慈悲の組)」の基礎を築いた。医療・福祉活動、貧困者の生活支援など、その活動内容はマタイ25章の「正しい人たち」をまねることであった。『ドチリナキリシタン』の中には、この慈悲の組の『14のすすめ』が暗唱事項として記されている。ステンドグラスには、この中の「ものや体についての7つのすすめ」(飢えている人、乾いている人、着るものがない人、病気の人、旅をしている人、囚われている人、亡くなった人)を図案化した。「あなたの父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6,36)こうしてキリストの福音は正義によってではなく、慈しみの行いによって、理屈抜きに直接日本の貧しい人々に伝わっていったのである。

【聖体の組】
聖体の組

誰が、どのような仕組みで始めたのかは明確ではないが1610年頃の年次報告書に「聖体の組」と呼ばれる信者たちの活動が登場してくる。特に迫害に入ると、聖体礼拝や聖体拝領を準備させることで仲間の信者たちの励まし、支えつづけた。島原半島では、殉教者たちの最後の祈りとして「聖体のイエスは賛美されたまえ」を唱えと報告されている。さらに島原の乱では「ご聖体の組の旗」(島原の乱の陣中旗)やメダイを口に含んで斬首されたと見られる頭蓋骨の発掘など、聖体にかかわる信者たちの信仰のしるしを認めることができる。聖体と殉教の深い結びつきを説いたのは、自らもローマで殉教したアンチオキアの司教イグナチオだが、日本の信者たちも同じ霊性を生きていたと推察される。なぜ、キリシタンたちがあのように生きて死んだのか、その理由は聖体にたどり着く。「ミサ(聖体)はキリスト信者の源泉であり、頂点です」(『教会憲章』)ステンドグラスは、「聖体の組の旗」を模して、オスチアとカリスの前で礼拝を捧げる天使と共に、信者たちもその礼拝に加わるさまを描いた。それは、神が使いに運ばせた天からのパンで養われる人々の姿を示すものであり、同時に、キリストのいのちに養われて、キリストに似た者となるように招かれた人間たちの決意をも示している。

【剣を鋤に、槍を鎌に】
剣を鋤に、槍を鎌に

上記に示した教会の3つの働きは、イエスがメシア(キリスト:油を注がれた者)であることからくる3つの使命(預言職、王職、司祭職)に起因している。いつの時代もこれらの働きは教会の基本であり、教え・世話し・祈る3つの姿をバランスよくいきたとき教会はキリストの背丈まで成長していく。殉教時代、日本の教会はその成長した姿をしるしとして残している。島原の乱の激戦地原城跡から今日発掘される多くのロザリオの珠やメダイや十字架は、立てこもっていたキリシタンたちによって打ち込まれた大砲や鉄砲の弾から作り変えられたと考えられる。
戦いの道具を祈りの道具に、殺戮の道具を平和の道具に作り変えたのです。「彼らの剣は打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2,4)神からの預言は真実なのです。しかし、大砲の玉をロザリオの珠に打ちなおす前に、キリシタンたちをアダムから神の子らに作り変えてくださるお方がいた。ロザリオは作り変えてくださるお方への「取次ぎの祈り」です。「この人が何か言いつけたらその通りにしてください」(ヨハネ2,5)味気ない水を風味あるぶどう酒に変えたお方に取り次ぐのは、聖母の役割です。キリストは、作りかえられるという「過ぎ越し」に、マリアを介在させたのです。鉛のロザリオの珠は、殉教時代の教会が残した「過ぎ越し」のしるしです。

【日本の教会】
日本の教会

日本の教会ほど信徒によって導かれ育まれた教会は世界に類をみない。特に250年間の司祭不在にもかかわらず教会が絶えなかったことは、人間の働きを超えた出来事には違いないが、信徒だけでも教会が存続しえる証拠ともなった。しかし、そのために特別に選ばれた信徒たちの存在は無視できない。「都へ行きなさい。水がめを運んでいる男に出会うその人について行きなさい・・・・・」(マルコ14,13)「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバー「慰めの子」-と呼ばれていたキプロス島生まれのヨセフも、もっていた畑を売り、その代金を持ってきて信徒たちの足もとに置いた。」(信徒4、36-37)信徒たちの時代から神はそのみわざを行うために、信徒たちを従え守るために、前もって「慰めの子」を選び、待ち構えさせていたのです。宣教師たちをかくまい、信徒たちを束ね、体を張って教会を擁護する彼らは、神にとっては「愛する子」に違いにない。昔も今もこのような「バルナバたち」によって日本の教会は支えられてきた。彼らの生涯はキリストのパン(聖体)に与かる一粒の麦であり、その血に与かる一粒のぶどうのようでもある。ステンドグラスは、日本の教会のバルナバたちを代表して、今、列福申請中の雲仙6人の殉教者の顔と祈る掌を描いた。

【たたずむ聖母と日本の教会】
たたずむ聖母と日本の教会

「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19,27)十字架上のキリストはマリアを教会の母、苦しむものの母として私たちに差し出された。それ以来、聖母マリアは苦しむ者の傍らに黙ってたたずんで(Stabat Mater:たたずむ聖母、悲しみの聖母)いる。沈黙の250年間の日本の教会には一人の司祭もいなかったが、あの十字架の傍らにたつ聖母はこの苦しみの教会に黙ってたたずんでおられた。それは、教会だけでなく、毎年、毎年踏み絵を行い、その度に「こんりちさん」を唱えて罪を侮い、信仰を新たにしようとする貧しい信徒たちの傍らに、黙ってたたずんでおれれた。1854年「無原罪のおん宿り」の信仰箇条が宣言され、それを確認するかのように1858年ルルドに聖母が出現、このマリアへの信仰に育まれたパリミッション会の宣教師たちによって、神は日本の沈黙の教会の扉を開かせた。その時のシンボル(信条:もともと「割符」「合言葉」の意味)は『サンタ・マリアはどこですか』だった。日本の教会の復活に立ち会ったプチジャン神父と杉本ゆりを代表とする潜伏キリシタンは、互いに教会の母であるマリアを通してその信仰を確認したのです。マリアはザビエルの時からずっと日本の教会と共に歩んできたのです。さらに、1945年8月9日アメリカによって長崎に落とされた原子爆弾は、浦上天主堂の上で炸裂しました。その時十字架の傍らに立つマリア像の祈る手は吹き飛ばされてしまいました。しかし、マリアはその時も苦しむ者たちの傍らに黙ってたっていたのです。「7代たてば、ローマからパーパさま遣いが来られる」かつて潜伏キリシタンの間で伝えられた約束はプチジャン神父を通して実現した。そして、1981年2月26日そのパーパ様(教皇ヨハネ・パウロ2世)はこの地を訪れ、信徒発見の聖母の前で日本の教会のために祈られた。

教会とステンドグラス

毎週、日曜日 午前11時よりミサが行われています。
お気軽に御参加ください。
毎日、午前9時~午後5時まではステンドグラスをご覧頂けます。

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